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トップページ > お知らせ一覧 > 事も無げとは無造作であり、楽に描く事であり、超常と言えないこともない。 2020/10/23(金)

事も無げとは無造作であり、楽に描く事であり、超常と言えないこともない。
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乾山の絵に近代人の好む近代感覚はないかも知れないが、ともかく、絵は生きている。
人間というものが出来ていなくて、しかも、作品だけが立派に出来得るということは、ものの道理が許さないことであるから、是非とも人間から造ってかからねばならぬことを、とくと考えねばなるまい。

 作家たちの信念のなさに次いで挙げられるのは審美眼の不徹底である。現代美術に向う場合は、相当になにやかやと口賢しく、軽々と議論を下しているが、少し遡って古名画、古美術を示す場合には、一目で美術価値の程度を看破し、真贋を見極めるという鑑識眼を有する者は殆どないと言っても過言ではない。高が竹田や山陽程度のものでさえ鑑みえない者たちである。貫名、山陽の程度に於て、即座に真偽鑑定に責任を持ち太鼓判を押せる鑑賞画家というのはまずない。
 かように徳川末期の表面的な芸術に於てさえ鑑識不十分とあっては、それ以上年代を遡っては、ますます自信のあろうはずはない。まことに現代鑑賞家のために遺憾千万、残念至極である。

 画家だから絵のことはわかる、書家だから書のことだけは確かであろうと、内外の素人というものは考えているようだが、とんでもない間違いであって、むしろ画家には絵はわからない。書家には書はわからない、と明白に訂正しておきたい。陶器師だから仁清もわかる、乾山もわかる、木米もわかると考えるならば、それは大きな錯誤である。事実専門家というもの、わかっていそうで、実は何もわかっていない。

 こんなわけで自信がない、自信がないから人間が出来ていない。人間が出来ていないから肚というものがない。肚がないから腹芸が出来るはずがないとなる。腹芸が出来ないために、猪口才で行こうとする。手先きで器用な細工をしようとする。かくて浅薄な作品ばかりが、後から後へと柄を変えて生まれる。浅薄なるために識者は感心しない。識者が感心しない故をもって、遂に群盲までが追従して、感心しない仲間入りをする。従って、作品の価格も人気も永続するところがない。とどのつまり反古ほごとなり、消滅して行く。
 さて、こうなるのが、本当であるとすれば、なんと言っても絵筆の前に、まず人間の方から鍛え造ってかからなければ、言うところの本当の絵画は生まれないのである。
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